小説「悪魔の詩」訳者殺人事件

世田谷一家殺人事件 赤い蛍光塗料が付着



二次資料データから

概要

被害者:筑波大学助教授五十嵐一さん(当時44歳)
死亡時刻:1991年7月11日(木)22時以降
発見時刻:1991年7月12日(金)8時40分ごろ
発見場所:筑波大学人文・社会学系A棟7階のエレベーターホール

 

被害者の状況

体には無数の切創群があり。
背後から切りつけ、胸や腹部3か所を刺したのち、刃を首筋にあて頸動脈を切り裂かれていた。
頸動脈から血を抜く切り方は、イスラム教徒が羊を殺すやり方。

 

犯人に関すること

当時の状況

O型の血痕(被害者とは一致しない)
中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)

逃走ルート

犯人が負傷した血と返り血が床ありその軌跡から推定されたものがある。
血痕は被害者が倒れていた7階のエレベーターホールからエレベーター裏側の中央階段の3階まで点々と続いていた。
3階からは廊下伝いに南西角のドアを入り、そこにある非常階段を遣っていた。そこを下ると外の広場に通じる。

仮に中央階段を2階まで降りると非常階段に出ることができない。そして警備員がいる1階出口を必ず通ることとなる。
ここから、入念な下見行動をしていたと考えられている。(③)

事件前夜

中東系の男2人が、五十嵐助教授の研究室のある人文・社会系棟7階を歩き回っている姿が目撃されていた。(参考:②)

イランの反政府組織

イランの反政府組織は、五十嵐さん殺害事件は、
「イランの聖職者が送った暗殺団による犯行」
と発表。

 

時系列

1988年:イギリスの作家サルマン・ラシュディが「悪魔の詩」を発表

1989年2月14日:イランの最高指導者ホメイニ師が悪魔の詩の著者を「処刑宣告」を発表

1990年:五十嵐さんが邦訳する

1990年6月3日:ホメイニ師は心臓発作で死去

1991年7月:イタリア誤訳の翻訳者が襲われ負傷される

1991年7月11日:
20時10分ころ:警備員が7階の犯行現場付近を巡回
21時30分ころ:被害者の部屋は消灯されていたとの目撃情報
時刻不明:五十嵐さんが殺害される

2006年7月11日:公訴時効

 

殺害時刻と通常の帰宅時間

殺害時刻

21時以降に殺害された。これは、胃の内容物による状況から。(参考:②)

帰宅時間

普段21時以降に仕事をすることがほとんどなく、通常20時には大学を出ていた。
2キロ離れた宿舎へは学生の運転する車かタクシーを利用。
事件当日はタクシーを呼んでおらず、迎えに行く予定の学生もいなかった。

 

警察が容疑者としてマークした人物

警察が容疑者としてマークした人物がいた。
職業:筑波大学第3学群情報学類〇学生
性別:男
生年月日:1969年
出国港:成田空港
日時:7月12日 12時34分発
便名:ビーマンバングラデシュ航空073便
目的地:ダッカ空港(③)

【参考】
文献
①犯罪事件研究倶楽部 「平成日本凶悪犯罪大全」 イーストプレス 2018年2月

②別冊宝島編集部編 「昭和・平成日本の凶悪犯罪100」 宝島社 2017年8月

③「文藝春秋」編集部編 「私は真犯人を知っている 未解決事件30」 春秋文庫 2011年3月

サイト
wikipedia 悪魔の詩訳者殺人事件

 

 



考察

事件当日なぜ帰りが遅かったのか

普段は被害者は20時には帰宅している。そして、胃の内容物から21時以降に殺害されたとされている。
そして殺害場所は勤務地である学校。ということは生存した状態で21時まで学校にいたことになる。

なぜ事件当日に限って帰りが遅かったのだろうか。

この事件は、犯人は捕まっていない。
しかし、イランの反政府組織は、五十嵐さん殺害事件は、
「イランの聖職者が送った暗殺団による犯行」
と語ったとのこと。

このことから未解決事件だが、どこの組織が行ったのかは分かっている事件である。

 

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